top of page

神 道 (Shinto)

このコーナーでは日本の歴史と共に存在している神道について考察してみたいと思う。 神社は、この地球上で日本にしかない独特な神々との交流の場と言えます。 神道にもいいろ在りますが大きく分けて「国家神道」と日本古来の自然信仰の趣の強い「古神道」があります。 ちょっと毛色が違って「山岳信仰」「山伏信仰」他、様々な神道系の宗教が存在しています。 他には仏教系、キリスト教、イスラム系などの宗教がありますが、何と言っても日本全国津々浦々に到る摂社末社まで含めると30万社を越える神社が存在しており、日本という国の根幹を成しているといえます。 また、世界広しといえども日本人だけの宗教で唯一無二というのも不思議な世界です。

厳島神社.JPG
​厳島神社の鳥居(itsukushima jinja)(Shrine)
伏見稲荷大社.jpg
​貴船神社の鳥居
ooarai.JPG
​茨城大洗の太平洋に向かって立つ鳥居
浅間神社.jpg
富士山本宮浅間大社(Fujinomiya City)
出雲大社.jpg
出雲大社本殿
ユダヤ阪和4.jpg
3世紀から4世紀にかけて古墳時代があり、蘇我氏が実権を握っていくのですが、その頃は関東に多くの古墳群があり、その中からユダヤ人と思われる埴輪がたくさん見つかっています。 神功皇后が高句麗と戦ったり、応神天皇が新羅に阻まれた弓月之君を軍事圧力を掛けてで日本まで連れ帰ったり、そういう時代にユダヤ教徒の集団や秦氏なども多く渡ってきています。 それによって物部系(石上神宮)神道が歴史の表舞台から消えていくことになりました。そのあたりから神社神道が形作られたと思われます。 古神道とは趣の違う神道へと変化していったのだと思います。
 
ユダヤ埴輪6.jpg
古代日本に渡ってきたユダヤ人の埴輪

神社の始まり

この日本という国は世界最古の歴史を持ち、皇紀2684年も続く天皇制国家といえます。  それ以前に神社はなかったのかというと神社ではなく、巨石信仰とか、磐座(いわくら)信仰というような自然信仰(アミニズム)の歴史が長く縄文時代という数万年の平和が続いた時代にまでさかのぼります。 縄文時代後期に大量のユダヤ人達が日本にたどり着き、あまりにも豊かな自然と、様々な精霊の宿る神気あふれるこの地において縄文人達と交わることで一神教を捨て、様々な神を祭るようになって、そこに出雲系の渡来人、秦氏系の渡来人、南方系の渡来人達が渡ってきたのと、仏教系の人々も中国経由、半島経由で日本に渡ってきて、それらに刺激を受けて古代神道系の人々は、神社を建て、鳥居を創り、日本神話を編纂し、様々な神話の神を祭り、神社の神々との深い関わりの中で歴史を紡いできたのが大雑把な神社の歴史と思います。

磐座信仰.jpg
六甲比命神社 磐座
(rokkouhimejinja  iwakura)

​神道の特徴

一神教も多神教も、様々な神もひとくくりにすれば「一つの神」という事になります。宇宙創造の神を「天之御中主之大神」(アメノミナカヌシノオオカミ)、太陽神を「天照大神」(アマテラスオオミカミ)、月の神は「月読之尊」(ツクヨミノミコト)、海の神は「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)などと呼称しています。 他にも様々な神様がたくさんいますが、すべてを司る神を根源神として、その様々な働きを行う役割を担った高次元の霊達に名を付けて最後に「神」という名を付けて呼んでいるのです。 大元の「神」は確かに全てに在す(まします)のですから神にお願いすればいいのかも知れませんが、それぞれの得意分野というか、専門分野というか、役割分担のような働きの神霊がいますから、内容に応じて祈ったり、お願いしたりするわけです。 産土之神(ウブスナノカミ)は地元の神社の神々様で、諸事(しょじ)諸々(もろもろ)のお働きを為しておられます。 順序として、まずは地元の神様とともに大人になっていきますし、見守ってくれています。 そのような、人々の生活と日本の神々は深く結びついていて、神と人とともにこの日本という国が成り立っているといっても過言ではありません。 一神教のように、唯一の神しかいなくて、人は生まれた時から罪人なのだと言われても、いろんな神様がいるし、罪人ではなくて、それぞれの成長段階があるだけで、成長の過程で様々な問題にぶつかり、失敗したり、成功したり、罪を犯したりもします、そしたら償えばいいし、反省すればいいし、神様に赦しを 請うてもいいではないかという事になるのが日本人の神との関わりのように思います。 特定の宗教や宗派や教義が無くても、日本人は、神話の神々に霊筋、血筋の繋がり、神に仕える天皇という存在を戴き(いただき)ともに歩んでいるという長い歴史があるので、天皇を通じ、神社を通じ自然と神や大自然と溶け合った歴史を育んできたとも言えます。 だから、入信する事も無く、信徒を語ることもなく、様々な宗教を認め、日本という神の御神体の大八洲(おおやしま)という大地で生命をつないでいるのだと思います。

心経岩六甲.jpg
六甲 心経岩
心経岩(shingyouiwa)
六甲比命神社(主祭神 瀬織津姫)(rokkouhimejinnja)
巨大岩にびっしりと「般若心経」が刻まれています。
六甲山頂近くにある「六甲山の上美術館」まで行きます。 そこの門右の脇道を300mほど下ると
ほぼ行き止まり2,3台駐車可能

無宗教意識

一般的に日本人の多くは、「私は何々教徒です」「何々教徒だから云々」と主張する人は非常に少ないと思います。 逆にキリスト教人や仏教徒の人々は明確に「自分は何々教徒だから」と宣言する人が多いように感じられます。 彼らからふと感じるのは「だからあなたたちとは違う世界の住人」という強い意志のようなもので、その分野に於いては相容れない分離観という壁が出来てしまう感じです。 宗教人と未開人みたいな(笑)、、、。 多くの日本人は、生まれた場所も、どこに行ってもかならず神社があって、お寺があって、どこにいても大自然の神、神社の神、産土之神、八百万(やおよろず)の神、太陽の神、月の神、火の神、水の神など周りがすべて神なので、神の中にいて、神に守られて、神と共に、ご先祖様とともに存在しているような,漠然とはしていますが明らかに神と共に歩んでいる感じなのです。 でも、神社にはそれぞれのしきたりや作法はあっても教義も聖典も、教え諭したり、説教を垂れたり、入信したり、儀式を行ったり、決められた日に、時間に何々をしなければいけないとか戒律も何もありません、入る事も抜けることもなく、ただ神とともにあるがままにあるのが日本の宗教観というより生き方と思うのです。 でも、神職といわれる人達は、神に直で仕える人達なので神との約束や儀式が在るのかも知れません。 また、神と人との仲介役としての役割を果たしています。 その姿勢を見て、人々もそれに習ったり、特に神に向かう修行をしたり、神を感じたりしているわけです。 それでも聖書や、経典はなく、あるのは「祝詞」「真言」「祓い清めの行」 それぞれの神社の神の由緒に従って、きめられた日時に神職と氏子たちと庶民によって儀式や、祭り、御子舞(みこまい)などが執り行われ、神と人がともに祝う行事などがあります。 それは、それぞれの神社に古くから伝わる伝承によって行われる祭りの内容が異なってきます。 ですから、神と精霊とご先祖の霊と共にある状態なので、敢えて「何々教徒」という事に違和感が在るのかも知れません。 

鞍馬寺魔王之瀧.jpg
鞍馬寺(kuramadera)Temple)
「魔王殿」つまり悪魔の王です。 でも、その本性は聖なる神の座にある「サナートクマラ」という神を祭っています。「鞍馬天狗」発祥の地ですね。 そうしてずっと昔から人は神と共に一緒に生活しています。 無宗教者は未開人とか、死の世界はあるかないか、地球が回っているのか太陽が回っているのかを問うくらい違和感のある質問と感じるのはジイだけでしょうか。

 
祈りの本質

 祈りとは「意」を宣(の)る事であり、宣言する事であり、神や高次元の存在や、目に見えない人間のパワーを越えた存在に対して、身を清めたり、神社に行ったり、お札を納めたり、供え物などで思いを叶えられるよう宣ることであります。 その形式はそれを行う者の感性にゆだねられていて自由です。 ご先祖様にお願いしたり、神社の神様にお願いしたり、太陽にお願いしたり、大日如来や弥勒菩薩にお願いしたりします。 そして、その祈りを叶えたいから祈るのですから、その祈りが成就する事が大事であります。 そのためには、祈りの本質を知らなければなりません。 的外れでは的に当たらないのです。 

成就するとは、現実化すること、現れる事、そうなる事をいいますから、そこに力が働いてそうなるのです。 その力が発動するには「念力」「思い込み」「言葉」「言霊」「しくみの力」などが作用する必要があります。 そもそも、この世というのは「時空のキャンバスに思いが表れる世界」である事を知らねばなりません。 その真実を意識的に働かせることが祈りという行為なのです。

そして、その祈りが最も効果的に現実化するには、神が望み、自然が望み、他の全てがその祈りで「嬉しく、楽しく、有難く」なる事なのです。 自分の嬉しさは他の悲しみ、自分の豊かさは他の貧しさ、自分の成就は他の不幸、自分の勝利は他の敗北というのは、神の摂理、自然の摂理に反するのです。 つまり「今だけ、自分だけ、金だけ」という祈りでは自然の意志に反するので誰も応援してくれません。 応援してくれるとすれば、力のある悪意を広めたい存在、他を不幸にしたり、神から離れさせたり、混乱に陥れたりする者達が応援してくれます。 そして、成就したとしても、それによって更なる困難へと導かれる可能性が高くなります。 何故なら、自然界は皆の豊かさ、大調和、与えあい、自他愛という世界だからです。 そうなりますと、神が望む世界、自然が喜ぶ事、他が嬉しくなる事のために祈る事が最も効果的で実現力のある祈りという事になります。 もっと、他のためにお役に立ちたいから祈る、というのは非常に強力な実現力を伴います。 そいう意味では、祈りの本質から外れた祈りや願望というのは、資本主義=拝金主義=我欲中心=個人主義=唯物史観となり、自然や神と対立する世界が成就して作り続けるので不調和、不完全、争い、奪い合いという世界になっていき、神の、自然の、「浄化の働き」となって崩壊に向かう事になります。

神道や仏教では、そのために常に浄めのための清掃、境内の浄化、身を浄める事を実践しています。 特に神道では「祓い浄め」が進めば進むほど、曇り、迷妄から抜け出して本来の神の子の自覚と、神と繋がっていると感じたり体験するようになってくるのです。 そのように神と一体、万物と一体という境地になればなるほど祈りの力も大きくなり、目に見えない世界からの力添えも得られるということになり、祈りが成就する体験が増えてきます。 それは創造主との一体感として認識されるようになってくるのです。

巫女舞.JPG
巫女舞(mikomai)
天野橋立.jpg
天橋立(amanohashidate)の海
千本鳥居.jpg
元之隅神社(長門市)(motonosumi)
​神道の神とは

神道には聖書のような経典はないので、神の定義も当然ありません。 「神社における神」、「神道における神」、「神社にも神道にもよらない神」の概念とわけて考察すると、「神社」は大元(おおもと)の宇宙創造の神、すべてを表している神が元にあって、その中に神の働きをなす高次元の存在(霊、人神)を祭り、様々な願い事や儀式を行いますが、古事記、日本書紀出てくる天皇家の祖先に関わる人神(御神名)を祭神として祭る事が多い。 「神道」に於ける神の概念とは、もともと自然信仰(アミニズム)から始まっているので、自然、神羅万象すべてに神が宿っていて、その神によって生かされているのだから太陽を拝み、地球を拝み、動物植物を拝み、人を拝み、自然とともに歩もうとする謙虚で素直な生き方や緩い信仰心の傾向が強くなります。 

それは、食事をするときに「いただきます」という言葉にあるように「食するすべての命を感謝を込めて頂いて」それによって自分が生き、生かされることをのる(宣る、祈る)にもあらわれています。 そして「日本人の漠然とした神意識」というのは、神社や神道や仏教や他の宗教団体には属さず、だから神仏に仕える者としての自覚もなく、所属する組織にもはいらず、とらわれることなく自由に生きているのではありますが、神や仏を信じていないわけではありません。何故かというと、幼少期より日本神話(古事記、日本書紀)の物語に触れる機会や天皇の存在を意識する機会が多く、何十万社もある神社や仏閣の中で生活しています。 そのために、それぞれの地域においてお祭りや行事や儀式を自然と体験しながら大人になって行くことになります。 それによって、自然と神仏への概念が根付いていくようになっています。 それは、ある意味で神仏に向かう基本的な概念が備わっていることになり、必要であればいつでも神につながり、神の働きをなすという者に変化するということを意味し、その神とは祓い浄め、素直さ、謙虚さ、を基本とし、自然に対する畏敬の念という漠然とした方向性を持っているといえます。 しかし、問題はそうした漠然とした神意識の中に、個人主義、唯物主義、資本主義が普通常識として浸透し、その価値観によって犯された、神の道から外れた日本人が主流を占めるようになってきている事です。 しかし、それも神のしくみの中で浄化されていく過程にあると言えます。

高千穂.JPG
高千穂峡(takachihokyou)
biwako.JPG
琵琶湖(biwako)
 
神道の神が求める人の道​

神道は自然信仰的なので、神道を存在させてきた神々によって高次元の神霊が人に移り、その者を介して様々な「神示」を降ろされたり、寺社仏閣における様々な行事によって、人のあるべき道を示されています。 「真実」を求める者達は必ず、そのような書物や行事や寺社仏閣での不思議な体験に出会い、そこから神への道を歩み始め、神に導かれ、神が望む人としての生き方や修行の道へと誘われることになります。 それによって「神が求める人の道」が示されることになります。 最初から、そこに向かえば苦労せずに済みますが、それでは有難みや、神のお働きが必要なくなってしまいます。 そこで、様々な苦労や悩み、苦しみを乗り越える事ではじめて光が見えてくるようになっています。 ですから人生で体験する様々なご苦労というのは、寸毫も狂いなく「神の導き」「神の誘い」「神のお計らい」と知る事が大事です。 そして、神が望む「人のあり方を」知れば、様々な誘惑、洗脳、だまし、偽りに惑わされることなく「真実の自分」に向かう事が容易になります。 その「真実の自分」を知らなければ人のために、社会のために、人類のために、地球のために、神のためにという発想が出てこないので、いつまでも堂々巡りの迷妄の中で羅針盤のない行き当たりばったりの人生を歩む事になります。 人が生まれた目的、生きる意義、生きがいに向かって生きるためにはそれを求めなくてはなりません。 求めなければ誰も与えてくれないし、誰も教えようとはしてくれません。 何故なら、導く者は「水を飲みたがらない馬に水を飲ませることはできない」事をよく知る者だからです。 逆に、求める者には喜んで手をさしのべてくれます。 何故かというと、それが嬉しいからです。 人が成長に向かうとき、光に向かうとき、人が神を求めるとき、それは神の喜びであり、地球の喜び、自然界の喜びだからです。 すべての事象は「神に向かう聖なる大河の流れの循環」の中にあるから、その偉大なる「愛」の中で導きあい、誘いあい、助けあい、協力しあい、与えあいながら神に向かい流れていくのです。 それは命さえ与えあうのです、敢えて悪者になって悪事を働き、相手を善へと導いたりもします。 そして、善悪を越えた真実へと誘われる事になります。

神輿1.jpg
祇園祭.jpg
祇園祭(gionmaturi)
シオンの祭のようです
​神社参拝

日本全国津々浦々様々な神社やお寺があって、様々な祭が行われ、神と人が共に歩むという歴史をつないできています​。 それは外国の人々から見ると宗教行事に感じるかも知れませんが、日本人にとっては宗教ではなく生活の一部であり、神と人がまつろって、人が神にお供えをして、神を称え、神に感謝をささげ、神も「良きかな良きかな」と喜んでくれているのを感じる祝いの場なのであり、宗教儀式とは、人が一方的に神にかしずく、契約の関係、 常に許しを請う関係に感じられます。 祭とは、神と人、精霊達、ご先祖の皆様とともに弥栄していく姿であると思うのです。 さて、神社に参拝に行く意味は人によって様々ですが、霊験あらたか、パワースポットと言われる神社は人気があるようです。 人気のある神社には、やはり霊格の高い神が祭られていて、パワーがあるので願い事を叶えてくれたり、罪、穢れ、汚れが払われて気持ちがスッキリしたり、悩ましている問題が好転したりという現象となって現れます。 また、それぞれの神社には祭られている「人神」もいれば高次元の神霊が鎮座していたり、たたりを治めるために祭られた人神もいます。 そのため、その神社の神にもいろいろな色というか性格のような違いが存在します。 それによって、その神に合った願い事をする傾向があるように思います。 拝礼も「2礼 2拍手 1礼」「2礼 4拍手 1礼」など神社によって様式が異なるようですが、異なった様式でもダメという事ではなく、要は神に向かう気持ちの問題と思います。 鳥居から中に入ると、そこは聖域となるので「神を敬い、神に感謝をし、厳かな気持ちで」神と向き合いましょう。 ただし、我良し、都合良しの自分勝手な願いをする場ではなく、「禊ぎ、祓い、浄化」によって神のご加護、神の道への誘い、神の子である自覚をもって自己実現に向かわせる働き、願い事を叶えることで、神の道へと誘う、神と共に歩むように導くためにご助力してくださるのだという事を心にとめましょう。 

神輿.JPG
祭の神輿(maturi mikoshi)
モーゼが授かった十戒を治めた契約の棺(アーク)でしょう???
火祭り岐阜.jpg
1火祭り神輿.jpg

 手力雄神社 「火祭り」 各務原市

Tajikarao jinja 「himaturi」Kakamigahara City Gifu

​神道と仏教

日本では「神道」と「仏教」が主流を占めていて、神道の各分派30万社社以上、仏教各宗派7万5千以上の寺院が存在しています。 でも神道信者や仏教徒と敢えて信者であると認識している人々は意外と少ないように思います。 しかし、その寺社仏閣の数というのは日本全国、どんな僻地に行っても、山の中にも、どこにでも存在しているのでその信仰心の厚さというものは感じられます。 神道は縄文時代より自然信仰の流れで日本民族の誕生とともにあるように感じられますが、仏教は西暦350年頃から日本に伝わり始めたようです。 百済を通じて様々な仏像や経典が伝来し、唐の国(中国)は当時最先端を行く文明国として脚光をあびていましたから、その文明国の唐で流行った仏教は瞬く間に朝鮮半島を席巻して、日本からも空海や最澄などの高僧達が仏教の神髄を得ようと命がけで渡航をして様々な経典を日本に持ち帰りました。 当然、自然信仰や山伏信仰、神道系の信仰とは大きく違っており、仏教徒達は国策や流行の勢いを得て僧兵たちによる神社の破壊や排斥なども多発したようです。 また戦国大名も侮れないほどの財力や軍事力を持つに到った寺院は政治にも関与するようになり、有名な織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ち事件まで起きてしまいます。 他にも、寺院同士の宗派あらそいも結構起きています。 神道系は神を崇め、神とともに歩むのですが、どの神を祭るかによって様々な神社があります。 仏教はインドで起こった釈迦牟尼仏陀の教えで、経典や業法による滝修行や瞑想、読経などがあります。 日本人には仏教は精神の修養や葬式、神道は神への願い事や罪・汚れのお祓いや結婚式、年初の初詣の場というようなとらえ方と思います。 日本ではこのような2大宗教である神道と仏教、そしてキリスト、イスラム、ヒンズー、他、様々な新興宗教が存在していますが、ほとんど争うこともなく、互いに互いの存在を尊重し合って許容しあって共存しているといえます。 ここ20年位前から結婚式はキリスト教会でという若者を対象としたおしゃれ感覚や流行で行われることも多いですが、キリスト教徒でもなく、信者にもなり得ないですね(笑)。 日本の神道というのは教義も何もないけれど深く根付いているというか、その自由さと目に見えない世界との関わりという神秘的な側面で世界的な浸透力があるのかも知れません。

五百羅漢 
500rakan   

三十三間堂 京都市

Sanjuusangendou  Kyouto City 

​神道への道

神道を学ぶといっても、神主になるわけでもないので、どのように神道の神とともに歩めるのか、ともに在る事を知り得るのかというスッキリしない気持ちが残ります。 日本人の場合は寺社仏閣や自然と森羅万象から神を感じる機会が多いので自然と培っていかれる事が多いと思うのですが、経典も、教えも寺社仏閣もない一神教や個人主義の人々からは雲をつかむような漠然観に包まれるかも知れません。 日本人でさえ、具体的に何をしたらという問いに明確に答えられる者は極わずかと思います。 そこで、簡単に神道に祭ろう生き方について述べてみたいと思います。 1.基本的には神社詣での数をを増やすこと 2. 朝起きたらまずは生かされている事に感謝を捧げること。 寝る前に神への今日一日無事に過ごせたことや様々な神の計らいに感謝を捧げること。 大自然に感謝を捧げる事を習慣とする。 3. 家の中の東側に西を向けるか、拝む者が明るい日差しの方向に向かうように神棚を設置する事。 そして、最初に、お米とお酒(御神酒)とお水を捧げる事。 お水は毎朝交換するのが良い。 4. 主祭神を祭ること、できれば神道に於ける原初の神「天之御中主大神」(アメノミナカヌシノオオカミ)の「お札」を調達して祭り、他に機会があれば霊格の高い神社や地元の神社に行って「お札」を戴き、その神を祭るのが良いと思います。 その祭った神と常に一緒にいる感覚や神道の神と繋がった感触が得られると思います。 5. 休みの日や特別な日に祝詞を唱えたり、真言を唱えたり神への祈りを捧げる事。 そして、その回数を増やしたくなってくればそのようにして、毎朝、起きて仕事に出かける前、食事の前などに神に向かって祈る時間を設けたり、まずは清掃をして浄める。 そうすることで神との交流、神との通信、神との一体感、神の意向を感じるようになってきます。 更に修行を続けるには、常に神への祈り、神示、祝詞、真言とともにある状態、神と繋がった状態になるよう修行を続ける事で「神我一体」「神ながらの道」「神人」として神の働きに生きる人としての自覚と高級神霊界とつながった生き方を感じるまでに高まっていきます。 それによって万物と同根、森羅万象一切が自分であり、自分は宇宙そのものに溶け込んでいく意識体に高まって行くのだと思います。 そうなりますと「創造主」の世界でしょうか(笑)。 私も修行の身なの拙い説明をご容赦いただけますようお願いいたします。 また、最初に「神道の神様、私は神様の仕事をしたい。 神とと共に歩む道をお示し下さい」と祈る事は神に届きます。また外国の他の宗教の方も自由に神社に行って願い事をしたり、日本の神を敬ったり、拝んだりは自由ですし、異教徒だから願いを聞かないとかお断りという心の狭い神様ではないので安心して参拝してくださいね。 そして外国の神様もきっと喜んで下さる事をお約束します。 何故なら神には国境もなくすべてと繋がっているのですから日本の神々を知らないはずもなく、逆に神道に誘(いざな)われてれているとも言えるのです。 かといって、今までの神を否定するのでもなく自然と真実に向かうように導かれているのだと思います。

IMG_4727.JPG
古代祭祀場天照大神.JPG

上 熊野 那智の滝 Nachi Waterfall

下 古代祭祀場(天照大神) 

​神への祈り

神に祈るとは、願い事をする、こうありたいと宣(の)る事と思いますが、どちらにしても神に向かうことであり、神の意向を表すことでり、神の思い、願いを現象化する事に繋がります。 つまり、神の子、神の分身、分霊である「人」が神の働きに向かう段階を意味します。 であれば、それが効果的に実現性のある祈りにするための教えが人類に与えられています。 それが祝詞(のりと)であり、真言であり、神示であります。

そして、その極意とは、言霊(ことだま)にあります、つまり日本語の中に隠された神の意図、それは人類始まりの時、神が人に与えた言葉であり、神力こもれる音の響きが真言や祝詞に隠されているのです。 ですから、その神から与えられた日本語は非常に重要な言語であり、神の力の備わった言葉を発する事で神との共同創造が発動されると言っても過言ではありません。 その事実は人類にとっても重要な意味を持ちます。 その考察は後日に行うとして、このセクションでは祝詞、真言、実際の祈りの時に唱える言葉について述べます。 それは人類にとっても重要な音の響きとなります。 そして、日本語の一音一音に意味があるのです。 それほど、日本語の重要性を日本人は教えられることもありませんでした。 例えば、子供の非行化、虐め、社会への犯行などは「いろは唄」を毎日、学校で一度唱和するだけで無くなりますとまで言います。 或いは、日本語の「あいうえを」から始まる54文字はそのまま祝詞であるといいます。 また、一二三唄という重要な真言も存在します。 他、カタカムナなどいろいろありますが、神社に於いては祝詞があり、物部古神道などにも特殊な祝詞が在り、阿智神社にも、山陰神道にも特殊な真言があり、どれも人類にとって大事な言霊の発動となるものと言えます。 それでは、具体的な言霊、真言、祝詞について記載してみます。 外国の方もそのまま唱える事で何かが変わるとか、その変化を感じるようになると思います。 つまり、日本語の言葉そのものが「神との対話」につながる聖なる音の響きの配列という事になります。 ですから、正しい日本語、きれいな日本語、美しい日本語を心掛ける事が神を大事にする事に繋がってきます。

いろは 竹丸沙織.JPG

神道(真言集)

「ひふみ祝詞」
 ひふみ よいむなや こともちろらね
 しきる ゆいつわぬ そをたはくめか
 うおえ にさりへて のます あせえほれけ


「いろは祝詞」
 いろはにほへと ちりぬるを    
 わかよたれそつねならむ
 うゐのおくやま けふこえて
 あさきゆめみし ゑひもせす ん

「阿知女鎮魂歌」「阿知女作法」「呪文」

あ~ち~め―(一度) お~お~お~ (三度)

①   あめつちに きゆらかすは さゆらかす かみわ  

   がも かみこそは きねきこう きゆらならは

② いそのかみ ふるやしろのたちもかと 

   ねかふそのこに そのたてまつる

③ さつおらが もたきのまゆみおくやまに

   みかりすらしも ゆみのはすみゆ

④ みわやまに ありたてるちかさを 

   いまさかへては いつかさかえむ

⑤ わきもこが あなしのやまのやまのもと 

   ひともみるかに みやまかつらせよ

⑥ たまはこに ゆうとりしてて たまちとらせよ 

   みたまかり たまかりまししかみは いまそき   

   ませる

⑦ みたまみに いまししかみは いまそきませる 

  たまはこもちてさりくるみたま たまかへしすなや

⑧ すめがみの よさしたまえるおおみこと ふみゆ   

   くことぞ かみながらなる

⑨ よりかえし うちかえす波はなぎゆき 海のもも  

   しずけし

⑩ のほります とよひるめ かみたまほす 

   もとはかなほこ すゑはきほこ 

​ひと ふた みー よー いつ むゆ なな やー

ここの たりやー

※⑩は無言で1列目1回  2列目 2回 唱えます

※   長野県阿智村にある阿知神社(闇に対して昼神をまつる)の祝詞

アマテル天皇の知恵袋 思兼命を主祭神とする。 

ご子息はアメノ手力雄之神 が岩戸を開きその戸を

放り投げて落ちた地が戸隠神社(長野県)

 石上神宮 

「布留部言祝ぎの詞」

甲(きのへ) 乙(きのと) 丙(ひのへ) 丁(ひのと) 戊(つちのへ) 巳(つちのと) 庚(かのへ) 辛(かのと) 壬(みづのへ) 癸(みづのと)

「十種神寶」

 一(ひ) 二(ふ) 三(み) 四(よ) 五(い) 六(む) 七(な) 八(や) 九(こ) 十(と)

瀛都鏡(おきつかがみ) 邊都鏡(へつかがみ) 八振劍(やつかのつるぎ) 生玉(いくたま) 死反玉(まかるかへしのたま) 足玉(たるたま) 道反玉(ちがへしのたま) 

蛇比禮(おろちのひれ) 蜂比禮(はちひれ) 品物比禮(くさぐさのもののひれ)

 

「布留部(ふるべ)の神辭(かんこと)」

 ふるべ ゆらゆらと ふるべ

 ふるべ ゆらゆらと ふるべ

 ふるべ ゆらゆらと ふるべ


「あわ歌」
  あかはなま いきひにみうく ふぬむえけ
 へねめをこほの もとろそよ 
 おてれせえつる すゆんちり
 しいたらさやわ

「あいうえお祝詞」

あーいーうーえーおー

かーきーくーけーこー

さーしーすーせーそー

たーちーつーてーとー

なーにーぬーねーのー

はーひーふーへーほー

まーみーむーめーもー

やーぃーゆーぇーよー

らーりーるーれーろー

わー んーーーー

神道(祝詞集)

「大祓詞」  

高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし 國中に荒振る神等をば神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根樹根立草の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき此く依さし奉りし 四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭日の御蔭と隠り坐して 安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ 天の益人等が過ち犯しけむ 種種の罪事は 天つ罪國つ罪 許許太久の罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り末打ち断ちて千座の置座に置き足らはして 天つ菅麻を本刈り断ち末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞を宣れ

此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて聞こし食さむ 國つ神は高山の末短山の末に上り坐して 高山の伊褒理短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を舳解き放ち艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を焼鎌の敏鎌以ちて打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末短山の末より佐久那太理に落ち多岐つ速川の瀬に坐す  瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出でなば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根の国底の國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根の國 底の國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に聞こし食せと白す

おおはらえのことば(ひらがな)

たかまのはらにかむづまります すめらがむつかむろぎ かむろぎのみこともちて やをよろづのかみたちをかむつどへにつどへたまひ かむはかりにはかりたまひて あがすめみまのみことは とよあしはらみづほのくにを やすくにとたいらけくしろしめせと ことよさしまつりき かくよさしまつりし くぬちにあらぶるかみたちをば かむとはしにとはしたまい かむはらいにはらひたまいて ことといし いわねきねたちくさのかきはをもことやめて あめのいわくらはなち あめのやへぐもを いづのちわきにちわきて あまくだしよさしまつりき かくよさしまつりし よものくになかと おおやまとひだかみのくにをやすくにとさだめまつりて したついわねにみやばしらふとしきたて たかまのはらにちぎたかしりて すめみまのみことのみづのみあらかつかへまつりて あめのみかげ ひのみかげとかくりまして やすくにとたいらけくしろしめさむくぬちになりいでむ あめのますびとらがあやまちをかしけむ くさぐさのつみごとは あまつつみくにつつみ ここだくのつみいでむ かくいでば あまつみやごともちて あまつかなぎをもとうちきり すゑうちたちて ちくらのおきくらにおきたらわして あまつすがそをもとかりたち すゑかりきりてやはりにとりさきて あまつのりとのふとのりとごとをのれ

かくのらば あまつかみはあめのいわとをおしひらきて あめのやへぐもをいづのちわきにちわきてきこしめさむ くにつかみはたかやまのすゑひきやまのすゑにのぼりまして たかやまのいぼり ひきやまのいぼりをかきわめてきこしめさむ かくきこしめしてば つみといふつみはあらじと しなどのかぜのあめのやへぐもをふきはなつことのごとく あしたのみぎりゆふべのみぎりを あさかぜゆふかぜのふきはらふことのごとく おおつべにをるおおふねを へときはなちともときはなちて おおうなばらにおしはなつことのごとく おちかたのしげきがもとを やきがまのとがまもちてうちはらふことのごとく のこるつみはあらじと はらへたまいきよめたまふことを たかやまのすゑ ひきやまのすゑより さくなだりにおちたぎつ はやかわのせにますせおりつひめといふかみ おおうなばらにもちいでなむ かくもちいでいなば あらしおのしおのやほぢのやしほぢのしおのやおあひにます はやあきつひめといふかみもちかかのみてむ かくかかのみてば いぶきどにますいぶきどぬしといふかみ ねのくにそこのくににいぶきはなちてむ かくいぶきはなちてば ねのくにそこのくににます はやさすらひめといふかみ もちさすらいうしなひてむ かくさすらいうしないてば つみといふつみはあらじと はらへたまいきよめたまふことを あまつかみ くにつかみ やをよろづのかみたちともにきこしめせとまをす

「あちまりかむ」

「神呪看経」 (じんじゅかんぎょう)

今 奉唱(となへまつ)る「天地真理観(あちまりかむ)」は 三千止観の妙知・五事八相の供現 法界(ほうかい)無上不比の大靈呪 天来の称言なれば 至真幽玄 寰宥(かんう)大元靈の妙髄 妙志大聖 精正(せいせい)の大本元称なれば 其の誦唱し奉る妙音は 天地六合(りくごう)に徹して 上(かみ)は紫微(しび)の玉宮(ぎょくぎゅう)に連なり 下(しも)は奈羅焔府(ならえんぶ)に響き 瑞々(ずいずい)たる大功徳(だいくどく)大威神力(だいいじんりき)は 無量無辺 限りなく 遍満自在の靈明(れいみょう)輝き 盡々(じんじん)の大光明(みょう)は 照射 垂厳(すいごん)の靈条となり 燦然(さんぜん)たる五光は 十方(じっぽう)照射の大曼荼羅と化し 煌々(こうこう)たる金光(きんこう)を放ち 常闇(じょうあん)長夜(ちょうや)を照らす大日輪の如く成らむ

尊き哉(かな) 大神呪 畏(かしこ)き哉(かな) 大神呪 一度(ひとたび)至真の妙意を帯(たい)して奉唱(となへまつ)らば 一切の怨讐(おんしゅう) 怨念(おんねん) 邪氣 邪精(じゃしょう) 妖気 妖靈の災いはもとより 無始無終の罪業(ざいごう)をも忽然(こつねん)として消滅し 真乗(しんじょう)妙明(みょうめい)の実体を得て 修靈至真に至りて 入我応神・我入靈融の法相(ほっそう)となり 至妙深甚(しんじん)の鎮魂帰神(ちんこんきじん)を得て 幽条靈結せば 祈り奉る声は 繊(ほそ)くとも 弱くとも 例へ 力は無くとも 行徳は備はらざるとも 靈光は薄くとも 智光は拙(つたな)くとも 威光は懦(よわ)くとも 三上(さんじょう)奏文して 三光の徳は成就し 祈り奉り願い奉る聲(こえ)は 須叟須時(しゅゆしゅじ)たりとも 十界の靈界に尭通悉達(ぎょうつうしったっ)し 天神地祇(ちぎ) 千五百萬(ちいほよろづ)の神々を始め奉り 一切の諸仏 諸菩菩薩 諸天善神 諸大明王等(たち) 護法鎮護の神明(しんめい)等(たち) 皆 随喜(ずいき)し歓喜合掌し給いて 深甚の妙呪を聞召(きこしめ)し給ふ また幽界 冥界 三悪道の亡者 妖鬼等(たち)も 等しく無量の歓喜を受け 苦悩苦患の呵責を救はれ 無限の仰悦(ぎょうえつ)に浸らむ 天童は楽を奏して雲を開き 地神は九礼拝謝して道を披き 龍神は浪(なみ)を別(わか)ちて大神呪の直日(なほび)の妙言に會(あ)ひ奉(まつ)り 三毒業成(ごうしょう)の罪を脱し 四忿(しふん)三業(さんごう)の業火を滅し 大智円妙の徳を積み 八苦悩乱を救われむ 大神呪の大威神力は 其の功徳(くどく)深甚(しんじん)にして限り無く 無量無辺に偏満自在するが故に 大(だい)寰宥(かんう)の靈妙至真の大妙智也(なり)

大神呪に逆(そむ)く者は悉(ことごと)く滅し 随(したが)ふ者は彌々(いよいよ)栄へ 天地宇内(うだい)の中にある如何(いか)なる悪鬼 悪靈(あくれい)の妖気 邪精(じゃしょう)も 怖畏(ふい)恐々として 影を潜め 形を消して 悪念を捨て 怨讐を断ち 只管(ひたすら)に無上真実道の成果を願い奉(まつ)らむ

一言の大神呪は 三明六通(さんみょうろくつう)を倶(ぐ)し 至真摩訶摩神変(ましんぺん)の妙(みょう)文(もん)と成れば 正(まさ)に百万の経典(きょうてん) 万億の唱名(しょうみょう) 題目(だいもく) 念仏を唱うるに彌勝(いやまさ)らむ 我(われ)等(ら) 行者は二六時(つね)に是(こ)の大神呪を誦(じゅ)し奉るが故に 靈妙 靈通 闊(かっ)達自在の大神通力に護(まも)らるる

捍衛(かんえい)窮行(きゅうごう)の大善鬼神 六種六天の大威怒(いぬ)魔法王も 各自(おのおの)百千万の眷属(けんぞく)を倶して 瞬時に来り 寸毫(すんごう)も離るる事無く行者を護り 是(これ)に仕(つか)へる事 尚(なお)住僕の如くせむ

若(も)し誤ちて是(これ)を害し 毒せんとする者 又は痛め傷付けむとし 又は侮(あなど)り疎(うと)んじ 軽んじ謗(そし)る者在らば 忽(たちま)ちに身を現じて 其の頭(こうべ)を砕き 奈落の底に投げ下して 長く冥罰を加へ給ふ 如斯(かくのごとき) 大智精妙の神力は 三界に徹して 大神呪に応(こた)える天地大小の神祇(じんぎ) 一切の諸仏諸菩薩 諸天善神 諸大明王 八部諸種の善神(しん)は皆 歓喜合掌し給(たま)ひて聞召(きこしめ)し 其の祈りに随いて背(そむ)き給はず 炳然(いやちこ)の利生(りしょう)靈験泉の如く 現妙摩訶摩大 不思議を顕さむ

厥(そ)れ大神呪の妙言は 悪逆の者には 万雷が轟くが如くに響きて 悩乱苦悩して喘(あえ)ぎ 善知識の耳には 微妙なる天楽と聞こへて 心身清浄の法性(ほっしょう)を得む

誦(じゅ)者は瑞々(ずいずい)たる瑞光に包まれ 身より金光を放ちて光明の内に在れば 如何なる天魔破神 悪鬼悪靈も近寄りて 災(わざは)ひを成し得ず 況(いわむ)や諸悪緒毒薬に遇ふ事無し 盡々の妙言 天授の称言を謹みて (何某) 天を拝し地に礼して 恐(かしこ)み 恐みも 奉唱(となへまつ)るを御心(みこころ)も和(なご)しと聞召(きこしめ)せ

  

至真至誠 一心奉祷(ほうとう) 神通(じんづう)自在 神力深妙(しんりきしんみょう) 感応速通 如意随願 決定成就 無上靈法 神道加持(しんとうかじ) 太元元気(だいげんげんき) 玄妙至真 至誠の妙諦(みょうたい)

 

※天地真理観(あちまりかむ) 天地真理観 天地真理観 天地真理観 天地真理観 天地真理観 天地真理観 天地真理観 天地真理観 天地真理観

※(以上を一息にて唱える)※以上(いじょう)を三返(さんたん)繰り返す

六根清浄 大祓

 天(あま) 照(てらし) 坐(ます) 皇(すめ)大神(おおかみ) の 宣(のたまわく) く   

人 は 即ち 天下(あまがした) の 神物(みたまもの) なり  須(すべから) く 静謐(しずめしずまる) こと を 掌(つかさど) る 心 は  即ち 神明(かみとかみ) の 本(もとの)主(あるじ) たり   心神(わがたましい) を 傷(いた)ま し むる莫(なか) れ  

是 の 故 に  

目 に 諸諸 の 不浄 を 見 て 心 に 諸諸 の 不浄 を 見 ず 

耳 に 諸諸 の 不浄 を 聞い て 心 に 諸諸 の 不浄 を 聞か ず  鼻 に 諸諸 の 不浄 を 嗅(かぎ)て 心 に 諸諸 の 不浄 を 嗅がず  口 に 諸諸 の 不浄 を 言 ひ て 心 に 諸諸 の 不浄 を 言 はず  身 に 諸諸 の 不浄 を 触れ て 心 に 諸諸 の 不浄 を 触れ ず  意(こころ) に 諸諸 の 不浄 を 思ひ て 心 に 諸諸 の 不浄 を 想 はず  

是 の 時 に 清く 潔き 偈(こと) あり  

諸諸 の 法(のり) は 影 と 像 の 如く  

 清く 浄 けれ ば  仮に も 穢 るる こと なし  

説(こと) を 取ら ば 得(う) べからず   皆 花よりぞ 木(この) 実(、み)とは生る

我が身 は 即ち 六根清浄 なり  

六根清浄 なる が 故に五臓 の 神君 安寧 なり 五臓 の 神君 安寧 なる が 故に 天地 の 神 と 同根 なり 天地 の 神 と 同根 なる が 故に 万物 の 霊 と 同体なり  

万物 の 霊 と 同体 なる が 故に 為す 所の願いとして

成就 せ ず と 云 ふ こと なし  

無上霊宝神道加持(むじょうれいほうしんとうかじ)

大元造化三神報恩之祝詞

掛巻かけまくも最いとも)畏(かしこき)天地(あめつちの)元津神(もとつかみ)、天御中主(あめのみなかぬし)之(の)大御神(おほみかみ)、高皇產靈(たかみむすび)之(の)大御神、神皇產靈(かむみむすび)之(の)大御神達の奇すしく妙なる御恩賴(みたまのふゆ)に依りて、此(この)現世(うつしよ)に生出(あれいで)たる身にし有れば、其(その)元津、御恩(みめぐみ)に報い奉まつらむと為(して)、稱辭(たたえごと)を竟奉(へまつらくは)、彌高(いやたか)く底氷(そこひ)無き高天原の幽界(かくりよ)を主宰(しめし)給(たま)ひ、始めも無く終りも無く常磐(ときはに)堅磐(かきはに)鎮(しづまり)座坐(ましま)して、眼に不見(みえぬ)元津氣(もとつけ)は、百不八十(ももたらずやそ)の神氣(かむけ)を生(な)し給ひ、眼に所見(みゆる)物形(もの)は、日の御國(みくに)、月の御國、星の御國、亦(また)是(これの)地球(おほつち)に在りては、現(うつしき)蒼草(あおひとくさ)を始め、息(いき)有りも息(いき)無きも世に在りとし、在物(あるもの)の限(かぎり)を產化出(うむしいで)し、宇斯(うし)波伎(はき)護り幸(さきはへ)給へる御化功(みいさを)の、大き久しき廣き厚き大愛(おおいつくしみ)を蒙(かがふり)て、此(この)現世に在らむ限りは、大御神達の本津御心(もとつみこころ)の随(まま)に此の心を盡くして、倦事(うむ)こと無く此の身みを勉めて怠事(おこたること)無く、敬まひ畏こみも仕奉(つかへまつる)状(さま)を平らけく安らけく聞食(きこしめ)して、四方(よも)の國の青人草を為(し)て、天地の神理(かむわざ)に違不令(たがわしめず)、開世(ひらげよ)に後れ不令(しめず)、種々(くさぐさ)の禍(わざは)ひ無く、恙(つつ)が無く令在(あらしめ)給(たま)ひ、夜の守り、日の守りに護(まも)り惠み幸(さきはへ)賜へと、眞空(みそら)遥かに拜(おろがみ)奉(まつらく)と白(まを)す。

  日本の北の大地「北海道」
大自然の織りなす世界へようこそ
 

アクセス
北海道富良野市エリア
 
    ・JR 富良野駅
 ・千歳空港から車で2時間
 ・札幌駅から車で1時間50分
 ・旭川駅から車で1時間15分
 ・旭川空港から車で45分
bottom of page